昭和55年4月岐阜市生まれ
岐阜県立岐阜北高校→中央大学法学部政治学科卒業
生まれも育ちも生粋の岐阜人です。
大学生の時は大学院への進学を希望していましたが、家業である自動車解体業の工場移転作業を手伝うために有限会社牛嶋商店(現在は廃業)に入社。
入社後は、まず岐南町への工場移転作業に従事し、移転完了後は解体車両から取り外したまだ十分に使用可能な部品を販売を担当。
家業に従事する中で1人の勉強嫌いな中学生と出会い、カネなし、コネなし、ノウハウなしのないない尽くしの状態で塾を立ち上げました。
「究極的な教育の目的は子供達を自立させることにある」を信念とし、将来子供達が自立した大人になるという目的のために、その手段としての高校進学をサポートしています。
生徒の主たる対象は、勉強嫌いな子、勉強が苦手な子、家では勉強しない子、他の塾でただ座っているだけの子といったように、一般的に勉強に取り組ませるのが最も難しい子供です。
しかし、彼らがこれからの難しい時代を生き抜く力を得るためには、自ら学ぶ力が必要不可欠だと考え、勉強する場所と教材を与え、時に温かく、時に厳しく見守ることが自分の役割であると考えています。
勉強嫌いな子供達は、どうやって勉強して良いのか知りません。教科書の使い方、ノートの使い方、ワークやドリルの使い方といったことの指導から、学力を上げるための思考法、記憶を定着させるための方法などを伝えることにより、子供達自身の意思によって、自ら歩を進めようとするのです。つまり、勉強のやり方さえわかったならば、水を得た魚と同じなのです。
子供達の可能性を信じ、それぞれが自身の希望を叶えられるよう、お手伝いさせて頂きます。
僕達と一緒に最初の一歩を踏み出しましょう!
RS野中の塾長である僕は、高校、大学と第2志望です。にも関わらず、特に高校時代が酷く、進学校の中にあって何ともならない劣等生でした。とにかく無気力。毎日毎日何らかのテストがある高校が、自分にはすごく居心地が良くなくて、勉強するのが本当に嫌だったんです。でも、そんな僕がこうして学習塾を運営し、多くの子供達と素晴らしい時間を共有できているんですから、人生は捨てたもんじゃないなぁ、と思っています。
中学生の頃、成績はそれなりに良かったんです。でも、ずっと良かった訳ではなくて、2年生の時は大きく成績が落ち込みました。内申点で言うと5下がりました。これはマズイと思って、3年生になって何とか盛り返しました。高校は岐阜高校に行きたかったのですが、あと一歩足らなかったというのと落ちたくないという思いが強過ぎて、と言うか受ける勇気がなくて、岐阜北高校を受けました。合格はしたものの、そこからが苦難の始まりでした...。
「そんなに成績は悪くないだろう」、そう思って入学して最初のテストを受けたところ、待ち受けていた結果は...400人中382番、40人クラスの38番。何だ、北高校の中でも落ちこぼれじゃないか。そこから一気に勉強に対する意欲は薄れていき、特に数学は毎回毎回赤点の連続。そんな僕が、今小学生や中学生と算数、数学を一緒に勉強しているんですから、不思議ですよね。
高校の時、日本史だけが僕にとって楽しい科目でした。日本史だけは夢中になれたんです。でも、他の科目がボロボロで、相変わらず落ちこぼれのまま。2年生の時、全国模試で偏差値50あったかどうかすら怪しい状態だったんです。多分なかったかな。三者懇談の時に「志望校はどうする?」と先生に言われて、難易度表で1番上にあった「早稲田大学を志望します」と答えたんですが、「自分が何を言っているのかわかっているのか!」と怒られました。でも、せっかくだから私立で1番難しい大学を目指そう、気持ちはそうだったんですが、落ちこぼれだった僕がすぐになんて変われません。現役では見事に落ちました。卒業式の時点で、クラスで浪人が決定していたのは僕だけだったと記憶しています。
現役では早稲田しか受験していなかったので、浪人することに。学校の先生からも両親からも予備校に行きなさいと言われましたが、またそこで甘えが出てしまうと何も変わらないと思ったので、予備校には行かずに浪人生活を送ることに決めました。しかも、昼からは家業である自動車解体の仕事を手伝いながら、そこで得たお小遣いで教材を買うことにしたんです。結果を出さないといけない、もう逃げ場はありません。
相変わらず日本史は得意でしたが、英語は単語を覚えることからやり直すという日々。誰にも相談できないし、だからといって自分で決めたことなので言い訳ができない。でも、とても充実した日々でした。模擬試験を受けても、現役時代は合格可能性20%未満のE判定しか出たことのなかった早稲田の政治経済学部の判定で、DやCが出るまでに。センター試験は受験する意思がなかったので、そのかわりに受験した神奈川大学の給費生試験(簡単に言うと特待生みたいなもの)に合格。よしっ、今年こそはいける!、そう思った矢先、急病で入院することに。急性気管支炎でした。受験まで1か月...。
進学することになった中央大学の試験まで1週間と迫った中で退院。病み上がりの身で単身東京に行き、中央大学法学部、学習院大学法学部、早稲田大学政治経済学部、法学部を受験。中央と学習院には合格しましたが、またしても早稲田には合格することができませんでした。悔しかったですね。悔しかったですけど、縁あって合格した大学の中から中央に進学することに決めました。
結果的に早稲田には合格できませんでしたが、高校2年生の時に「早稲田大学を志望します」と言っていなかったら、きっと成績の向上はあり得なかったと今でも思います。浪人の1年間は、僕にとっては貴重な1年でした。
大学では僕よりもずっとずっと賢い友人に恵まれ、いろんな刺激を受けて勉強にも打ち込めました。落ちこぼれだった高校の時が嘘のように、勉強するのが楽しかったんです。元々読書は嫌いでしたが、いろんな知識を得たい一心で、いろんな分野の本を読みました。
大学に入った当初は何を専攻しようか迷いましたけど、高校の時から日本史が好きだったので、近代日本政治史のゼミに。卒業後は大学院に行きたい、ずっとそう思っていたんですが、4年生のある時に「政治よりも教育について学びたい」という思いが強くなり、卒業後は教育学関連の学部(学科)への編入学を考えるようになっていたんです。
教育への関心を強めていた秋、父から自動車解体工場の移転準備を手伝って欲しいという連絡を受けました。家業を継ぐつもりは全くありませんでしたから、この話を聞いた時は随分悩みましたね。母は家業に従事することを猛反対。ただ、東京まで行かせてもらった以上、簡単に首を横に振ることはできません。最終的に、1年間という期限付きの条件で工場で働くことになりました。
卒業試験が終了し、同級生が卒業旅行に興じていた頃、休むことなく油まみれになって働きました。卒業式の日だけは休みましたが、その日の夜、パーティー会場へと向かう同級生を背にして、1人だけ反対方向の駅へと向かう自分。こんなはずじゃ、とその時は思ったりもしました。しかし、数ヶ月働いた後、このまま工場を去ることは状況を考えても難しいと思うようになり、大学に戻ることは諦めざるを得なくなりました。
「いつか教育に携わる仕事をしたい」
この思いだけは捨て切れずに。
RS野中誕生のきっかけは、2つの出会いによるものでした。
平成24年8月、自動車の仕事を通じて知り合った方の中学3年生のお子さんと一緒に勉強することになりました。一緒に勉強することになったものの、受験まで残り半年というタイミング、英語はまだしも、元々苦手だった数学は基礎的なことしか覚えていないという状態。当時は工場で働いていましたから、昼は自動車の仕事を、夜はその子と工場の事務所の中で2人で勉強。家に帰ってからも、連日数学の勉強をしました。この出会いがきっかけとなり、念願だった教育の仕事を始めることができたんです。
もう1つの出会いは、現在の教室の大家さんとの出会いです。工場の狭い事務所では、子供達が落ち着いて勉強する環境を作り出すことは難しく、教室として最適な場所を探していました。そこで、以前別のケースでお世話になった大家さんにご相談したところ、平成25年の夏から現在の教室を使わせて頂くことになりました。元々集会所として使われていた建物で、現在教室部分として使用している部屋は約25畳分の広さがあります。廊下も広く、ゆったりとしたスペースの中で学習することが可能になったのです。
最初に一緒に勉強することになった子に、「週に何回来る?」と聞いたところ、「毎日はしんどいので、水曜日を休んで、それ以外の平日4回来ます」という答えが返ってきました。このことが、平日の週4日通塾可能な仕組みへとつながったのです(平成31年4月より平日全日通塾可能に変更)。当初は一緒に勉強する日と開始の時間だけ決め、独自の教室も塾の名前も何もない、それに僕自身の教育現場での経験ゼロ、ノウハウゼロと、本当に何もない状態でした。
その後、何人か通ってくれることになったのですが、当初の目的は「最初の生徒の高校合格」でしたので、「勉強する場所と教材を提供します」「授業は行いませんが、質問には応じます」という条件を付けさせて頂きました。しかし考えてみれば、家ではなかなか勉強できないという子にとっては、嫌でも勉強せざるを得ない環境に身を置くことは決してマイナスにはなりません。だからといって、いきなり大量の宿題を出してしまっては、せっかくやろうという気持ちになったのにやる気も失ってしまいかねません。通ってもらううちに、少しずつ勉強する量は増えていきます。勉強量が増えていけば、理解することも増えていきます。苦手な科目は人それぞれで、自分のペースで勉強できる環境を作るには、各自がその日その日の課題を設定し、それを行っていくことが効果的ではないかと考えるようになっていきました。わからないところは一緒に考えればいいのですから。
こうして、塾としての方向性、形が少しずつ定まっていったのです。
時々「塾の名前のRS野中ってどんな意味なんですか?」と質問を受けます。「勉強のことで悩み苦しむ子供達にとっての再スタートを切れる場所にしたい」、そんな願いを込めてリスタートを省略してRSとし、それに地名の野中を加えたのが塾の名前の由来です。
RS野中は設立以来数年が経過しましたが、まだまだ小さな塾です。小さな塾ですが、大きな夢を持っています。それは、通ってくれる子供達と「共に夢を語り合える塾になりたい」ということ、巣立って行った卒業生が将来自立した大人になり、地域社会に貢献する人材に育ってくれることです。
バブル経済崩壊後、日本は長期の経済的低迷状態に陥りました。「失われた10年」とか「失われた20年」などと呼ばれるこの時期、大人が夢を語るということは少なかったように思います。それはすなわち、子供達が夢に満ちた大人を見て育っていないということでもあると思います。人間形成、人格形成において、夢や目標は必要不可欠な要素です。僕達大人が夢を語ることで、夢を持った子供達が育っていくのではないでしょうか?その役割の一端を、僕はこれからも担っていきます。
RS野中は、共に夢を語り合える塾となり、地域社会に貢献する人材の育成に努めます。
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