かつて、教え子に画像にある言葉をかけたことがありました。これは、僕自身が経験したことを集約しているとも言えます。今回は本当にどうでも良いことかもしれませんが、僕自身の失敗等々書いてみたいと思っています。
僕は岐阜市で生まれ育ち、現在も岐阜市に住んでいます。40万人強の人口を抱える地方都市ですから、田舎と言い切ってしまうと語弊があるかもしれません。でも、都市部と比較すればやはり田舎だと思います、良くも悪くも。
そんな故郷岐阜を愛してやまない僕ではありますが、もし生まれてからずっと岐阜を出ることなく、岐阜だけで人生を送っていたとしたら、僕の価値観形成において相当の勘違いが生じていたことは間違いないでしょう。若かりし頃の自分が思い描いていた人生像をそれ程の努力もなく達成できていたとしたら、「上には上がいる」、そんなことを考えることもなかったかもしれません。その意味では、無知だったと痛感させられたことは、必ずしも悪い経験ではなかったと言えると思います。
僕が若い頃に明確に失敗だったと思うことは2つあります。1つは大学受験で第1志望に合格できなかったこと、もう1つは高校生の時に真剣に数学を勉強しなかったこと。このことはコンプレックスと言うと言い過ぎですが、それに似たような感情の原因でもあり、逆にその不完全さが今になってもっと勉強しようという動機になっているとも言えますか。
プロフィールのところでも書いているように、僕は早稲田大政治経済学部を志望して1年間の浪人生活を送ったものの、その目的を達成することができず、第2志望の中央大法学部に進学しました。中央大に進学したことは全く後悔していません。もちろん、受験という勝負での負けを認めるにもなかなか葛藤がありましたが、僕にとっての中央大での4年間は本当に良い4年間だったと思っていますし、高校時代の学業成績を考えれば十分過ぎる進学先だったと言えます。ただ、もし自分の思い通りに早稲田大に合格していたとすれば、きっと違う人生を歩んでいただろうとは思います。今が正しいかどうかは別として、方向性は完全に誤っていたでしょうが。
田舎育ちで地元小中を経て公立高校に進学することが極々普通の価値観である環境下、都市部の難関中高一貫校の存在など考えたこともなく(今思えば恐ろしいことです)、地元トップの岐阜高校を成績上位で卒業した訳でもないのに上手いこと受験をクリアしてしまっていたら、それはそれでおかしな方向に進んでいたでしょう。典型的な勘違いの誕生ですね。最近、難関国立・私立高校の英語や社会の問題を解いていて思うのは、あの水準の問題を解いて高校に入学した層と大学受験時に同じ教室で競い合っていたと考えれば、僕が勝てる要素などほとんどなかったんだろうなということ。それだけの準備が全く足りていなかったと思いますし、学生時代に仲の良かった有名私立高校出身者と話していていつも思ったのは、彼らにあって僕になかったものが学力だけではなくて「余裕」でした。それはもう圧倒的な差で。
そう、これまで全然知らなかったのですが、駿台が発表している「全国主要高校合格ライン一覧表」というものがあるのですね。それを試しに見てみたところ、岐阜県では岐阜高校だけが掲載されていて、合格確実ラインが56.5、最低ラインが52.3とありました。この数字は「駿台高校受験公開テスト」における偏差値です。とすれば、岐阜学区内で岐阜5校と呼ばれている岐阜高校以外の高校は更にそのラインが下がることになりますから、とりわけ5校の中でも4番手、5番手と見られる高校(あえて校名を出すのは避けますが)は全国的に見れば「進学校」と呼ぶに相応しいのかと疑問に思うのです。これは決してそれらの高校のことを軽んじているとか、悪く見ているとかそういうことではなくて、大学受験という全国の受験生が競う場においては、それだけ厳しい状況からのスタートであると客観的に言わざるを得ないということ。岐阜県の中でも岐阜学区という狭い“世界”でそこそこチヤホヤされる岐阜5校の高校に合格できたとしても、全国という観点で見れば、とても「進学校」とは言い難い学校もあるという現実。いくら情報が溢れた今日とて、井の中の何とかになっている子、田舎には大量にいると思いますよ。若かりし頃の僕がそうであったように。「上には上がいる」、これは大学受験を通じて教わった教訓であったと言えますね。
逆に言えば、そうした現実がある中で、高校生活を勉強中心に送っている高校生達には本当に頑張って欲しいと心からエールを送りたいです。地方にだって優秀な人材がいるんだ、そういう証明をして欲しいですし、岐阜では巡り会うことが困難であろう都市部の洗練された教育を受けてきた仲間達と共に研鑽を積むことができるって素晴らしいことではないですか。自分の努力次第では、体験したことのない価値観がある世界が待っています。それに賭けられるかどうか。大学はとても公平な場だと思います。学力さえあれば、性別も年齢も出身地も出身校も基本的には関係ありません。努力次第で入学の権利を誰もが平等に得ることができるのですから。
そうでした、僕のもう1つの失敗が高校生の時に真剣に数学を勉強しなかったこと。もうとにかく嫌で嫌で、数学の授業を受けるのが本当に苦痛でした。それもこれも結局は自分の努力不足なので、今更言い訳しようとは思いません。とはいえ、進学実績を伸ばそうとする学校側の思惑が、かえって生徒達を苦しめてしまっているのではないか?ということを、近年感じるようにもなってきました。生徒の資質の問題ではなく、教材と課題の選定が誤っているのではないか?と。こういった声をツイッターでお付き合いのある先生方(活動されている地域は様々)から聞くようになったからです。僕と同じように数学でつまずいてしまい、選択肢を自ら狭めなければならなかった高校生が全国にたくさんいるかもしれない。数学だけではないでしょうが、数学がつまずく可能性としては最も高いと思います。爆速授業に大量課題。1つ1つに時間をかけて理解しようにも、それだけに時間をかける余裕さえなく、気付いた時には完全につまずいてしまっていた、というケースが。
僕は数学が苦手だということにずっと引け目を感じながら、これまでも何度か、少なくとも2度は高校数学をやり直す機会があったのに、その機会を上手く生かすことができないまま4月に40歳になってしまいました。ちょうどその頃、中学1年生の夏前から高校1年生の夏前まで3年間通ってくれた高校3年生の教え子が「またここで勉強したい」と復帰してくれて(高校生になってからの募集は現段階でしておらず、中学生の時に通塾してくれていた生徒に限定しています)、主に英語を一緒に勉強しているのですが、その教え子から刺激を受けて「よしっ、本当に数学を勉強し直そう」と決めてから、毎日少しずつ勉強し直しています。これにはテキストの存在も大きく(KADOKAWAから発売されている、予備校講師の小倉悠司先生が執筆された『日常学習から入試まで使える 小倉悠司の ゼロから始める数学1・A』)、このテキストのお陰で「成程なぁ」などと思いながら楽しく勉強できています。現役高校生の時にこのテキストと出会えていたら、とは思いますが、あの頃は持っていても使いこなすことができなかったかもしれません。それだけの意欲もありませんでしたからね。
高校数学で苦い思いをし、そのことを後悔しながら、約四半世紀の時を経て、再び高校数学を勉強し直し始めた僕。そんな僕が偉そうに言うのもおかしいですが、地方の高校生達に言いたいのは、若い時だからこそ楽しいことはあると思いますし、それを全部我慢する必要はないと思うけれど、精一杯勉強はやった方がいいよ、本当に。都市部の難関中高一貫校の子達の存在を、そして彼らの持つポテンシャルと底力を甘く見てはいけないよ。いくら地方の学校で成績上位にいると思っていても、上には上がいます。しかも、そのレベルは桁外れ。その桁外れの子達が、大学受験という場ではライバルになるのですから。
これ以上書くと冗長に過ぎるでしょうから、そろそろこの辺で今回の話は終わりにしようと思います。もし今回のこの記事を多くの人に読んで頂ける機会があったとしたら、また地方都市に生まれ育って感じたことなどを書いてみたいですね。