先日、ツイッター上でいくつかのテーマについてブログ記事を書いて欲しいという無茶ぶり、いや失礼、要望を頂きましたので、その中から今回はタイトルにあるように「学校のなかった時代の教育は何を価値基準にしていたか」について書いてみようかなと思い立ちました。ここのところ、こちらのブログをなかなか更新できずにいましたから、丁度良い機会でもあると思いましたので。予め書いておくと、僕は歴史学、教育史学、文化人類学などの分野の専門家ではないので、明らかな事実誤認を含むかもしれませんが、その点はご容赦ください。
さて、「学校」というと、個人的には近代国民国家誕生以後の学校のイメージが強いのですが、それ以前の時代にも洋の東西を問わず教育機関としての役割を果たしたものはありました。もっとも、それらの教育機関は必ずしも全ての人を平等に受け入れてはいないでしょうし、現代のように幼少期から教育を施してきたとは言えないでしょうから、近代以後の「学校」と対等に扱うことには無理があります。ここでは「学校」という定義の厳密性を問うつもりがなく、何らかの教育を施す機関を全て「学校」というカテゴリーで扱いたいと思っていますので、そのような前提に立つと、学校のなかった時代というのは文明の誕生前、もっと言うと原始的な時代にまで遡る必要があるのではないでしょうか。教育についての記録が何も残っていない、想像しかできない時代。
そうは考えてみたものの、原始的な時代においてどのように教育は行われていたのか?を考えるのは極めて難しい課題でもあると思います。寿命は現代に比して遥かに短かったでしょうから、どれだけの大人がはたして子供が教育を受けられる年齢まで生存することができたのか?もちろん、人類が今も存在しているのですから、一定数の大人が生き長らえ、そして子供に何かしらの教育をしていた、とは想像します。又、現代のようにメディア(書籍も含む)がないのですから、教育の中心は経験の伝承(口承)になるでしょうが、その経験というものも、統一的な言語がない状況では離れた地域の人とは意思疎通を図ることすら難しかった可能性があるため、局地的な、極めて近い地域あるいは集団の中におけるものに限定されていたと考えられます。
そのような原始的な時代には、人間は今以上にもっと本能に対して忠実だったと思うのです。現代人は、幼少期から様々な形で倫理的な振る舞いを学び、年齢と共に求められる事柄も増えていきます。理性によって本能を抑えざるを得ないことは、一定の年齢以上であれば誰もが経験することでもあります。故に、現代人は本能を抑え、倫理的な振る舞いをすることを価値基準とした教育が重視されているとも言えるでしょうか。対して、本能に忠実であったであろう原始的な時代の人々は、生きるか死ぬかに直結する部分が価値として最も重視されたのではないだろうか?と。その中でも、人間にとって本能に最も忠実で、且つ生死に関わるものは「食」。すなわち、「食」を価値基準とした教育、という考えです。「食」に関する知識は自らの経験と伝承によって得られるでしょう。食料の調達方法、食べ方、有毒物からの危険回避の方法など。
人類にとって「食」とは飽くなき探求の対象であって、それは原始的な時代の人類にとっても変わるものではないだろう、と僕は思っています。食べるならより美味なるものを食べたい。例えば、現代において有毒だとされる物は、先人達が命を賭けて果敢に挑んだ結果として有毒であると判明したのであって、もし先人達が挑んでいなければ、それが有毒であるかどうかわからないままだった、ということも考えられます。今日ではそれを科学の力で証明できるでしょうが、多くの犠牲者が出たという経験が伝承されなければ、長い歴史の中で更に多くの犠牲者が出ていた可能性も十分に考えられますし、歴史そのものが変わっていたかもしれない。こういった点は、「食」が教育の価値基準であったとする理由の1つでもあります。
述べてきたように、仮に「食」が初期の人類にとって最初の教育の価値基準であったと捉えるならば、その後の歴史にも合点がいくことが少なくありません。時代が下って教育の価値基準の中心が「食」ではなくなっても、原始からの人類の変わらぬ「食」の探求が時に国の在り方を、時代の在り方を大きく変えたこともあったと言えると思います。
以上、まとまりがあるとは言い難いですが、要望を頂いた「学校のなかった時代の教育は何を価値基準にしていたか」について僕なりに論じてきました。如何でしたでしょうか?実はまだまだ多数の要望を頂いておりまして、それらを全てこなすのは僕の能力で可能なのか正直よくわかりません。今回の記事の評判によっては、あといくつかは挑戦してみようかな?と思ったり思わなかったり。
そうでした、忘れていましたが、現代の日本においても家庭の経済状況を「何とか食べていけています」、あるいは、勉強を全くしない子供に向かって大人がしばしば「それでは将来食べていけないぞ」などといった比喩で表すのは、人間が「食」がなければ生きていけないという事実だけを端的に表しているからなのでしょうか?今まで深く考えたことはありませんでしたが、少し気になるところです。