小学生の時はできていました?/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 生徒の期末テストのやり直しを見ていて感じたことです。悪い間違え方っていうのがやっぱりあるな、と思いました。計算ミスも決して良い間違いだとは思いません。原因は様々あるからです。しかし、練習によって克服していくことは可能でしょう。不可能なことではない。ただし、練習だけでは克服するのが困難な間違いもある。それは、言葉そのものの理解が、定義の理解が根本的に誤っているのに、そのことに気付きもしないこと。同じ失点でも、改善の期待が見込める失点と改善が難しい失点では、意味が随分と変わってきます。

 

 例えば、小学生の時にその問題の答えとして明らかに妥当ではない解答をしているのに「点数そのものは悪くないから」という理由で見逃していると、後々重症化することは避けられないと思います。点数の良し悪しだけでは、何が克服すべき課題なのかを正確に把握することはできないからです。中学生になり、急に成績が下降したということで見学を希望されるケースがあるのですが、そこで「小学生の時はできていました」と保護者が言われることがあります。「できていた」というのは、半分正解で半分不正解だと思います。テストは確かに決して悪い点数ではないため、「できていない」ということにはならないかもしれません。ですが、そこではないんですね、大事なところは。点数しか見ていないと、もっと大きな問題点に気付くことができません。その結果、本当は「できていない」のに、「できていた」という錯覚をしてしまうのです。

 

 九九で考えてみると、中学生に「九九はできる?」と聞いて「できません」という答えが返ってくることはまずないです。ただし、僕が求める「できる」のレベルに到達していないケースが実際には少なくありません。順番に辿っていって答えられるのと、瞬時に答えられるのでは意味は異なりますし、もっと言うならば、答えだけ見て何と何を掛けたらこの答えになるかを何パターンもすぐに答えられるのとでは次元が違います。小学校5年生の倍数や約数の時に気付くならまだ改善の見込みがありますが、中学3年生の因数分解をやり始めてから「この子、ひょっとしたら九九の運用能力が著しく低くはないか?」と感じるケースも実際にあるのです。もう1度言いますが九九の話です。「できません」と答えられることのない九九でさえ、中学の学習内容に耐えられるレベルにはない子がいるのです。小学校低学年の時に習う事柄を甘く見てはいけないという事例と言えるでしょう。

 

 九九ですらこのような状態がなのですから、分数の四則計算や割合などは言うまでもありません。数学が苦手だという子に話を聞いてみると、高確率でこれらを小学生の時から理解できていないのです。故に、中学生になってから急に成績が悪化したのではなく、小学生の時からその兆候は十分に見られているのです。そう思うと、「小学生の時はできていました」が最早虚しい言葉に見えてきませんか?

 

 では、小学生にガンガン勉強しなさいと言いたいのか?と言われるかもしれませんが、そんなことは全く思っていません。ただし、漢字ドリルと計算ドリルは徹底的にやるべきだとは思います。よくドリルの取り組み表を見ながら「もう2回やりました」とか「3回やりました」という声を聞きますが、何回やったかどうかは何の基準にもなりません。基準はあくまでもできるようになるまでやったかどうかであって、何回やったかという回数ではないのです。これをやらずして、「まだ小学生ですから」などという認識でいると、軽傷が軽傷では済まなくなります。間違いなく。

 

 10月になり、小学校6年生にとっては小学校での生活が残り半年となりました。目に見える点数だけで判断せず、失点の仕方にも注意を払うことが大切だと思います。それを軽く見ていると、実際には「できていない」のに「できた」と錯覚し、軽傷だったものが重症化することに繋がっていきます。決して中学生になってから急にできなくなったのではない、小学生の時からできていなかったのだ、と後々後悔しても時既に遅し。そうなってしまわないように、早めに傷は治していくことをおすすめします。