子供にとって、学校や塾などの一般的に先生と呼ばれる人というのは、「何でも知っている人」という印象が少なからずあると思うんです。僕も若い頃はそう思っていましたね。身近な知識人とでも言ったらいいんでしょうか。今、僕も「先生」と呼ばれることが多くなり、自身が若い頃思っていた指導者像と重ね合せると、如何に僕自身が不完全な人間なのかと思うことが多々あります。恥ずかしいとさえ思えてしまって。不完全なのに「先生」と呼ばれることが適切なのかどうか、そう思ってしまうんですね。
僕自身が不完全だと思いながら、それでも生徒達と日々接している訳です。当たり前のことではありますけど、知っていることよりも知らないことの方が圧倒的に多い。僕が知っていることなんていうのは、世の中にあるうちの極々僅かでしかないんです。学校で習うことにしたってそう。僕は全部が全部フォローし切れないし、フォローできると言い切るだけの自信も知識も残念ながら持ち合わせていません。それなのに、生徒達は「先生」と呼んでくれる。考えてみれば変な話ですよね。文字通り「先に生まれ」、生徒達より多少知識と経験はある、とでも言えますか。
逆に言えば、不完全だという自覚があるからこそ、完全を目指し続けることができるとも思います。そもそも、完全な指導者って存在するのか?という疑問もありますしね。前にどこで見たのか忘れましたが、「学徒」という言葉を使って説明している人がいました。先生だろうが生徒であろうが、学問を志そうとする者はその立場に相違はあっても、等しく「学徒」である、と。おっ、と思いましてね。学徒というと、第二次大戦中の学徒出陣のことを連想してしまうきらいがありますが、辞書で調べると「学生と生徒」という意味以外に、「学問の研究に従事する人」という意味もあるんです。つまり、学問を志す者全てが「学徒」ということになる。
物事を知ろうとすればする程、己の無知に気付く時が訪れます。知れば知る程、何と自分は愚かなのだと思わざるを得なくなる。愚かだという自覚があるからこそ、更に深く学ぼうという意思が生まれます。ソクラテスのいう「無知の知」の世界。僕は不完全な人間ですが、不完全であることを自覚し、学びの意思を放棄してはいないという意味では、生徒達よりも多少なりとも優れていると思います。何事もわかった気にならず、絶えず真理を追究し続けること。
このホームページのトップにも掲載している、僕の似顔絵と一緒に書かれている「一緒に勉強しませんか!」の文字は、生徒達と共に学んでいこうという僕の学徒としての意思そのものを端的に表しています。