僕はある時から、特定の用途(考え方や解法のメモ、問題演習の解答を書く場合など)以外でノートをほとんど使わなくなりました。理由は色々とありますが、簡単に言ってしまえばノートを使う意味を見出せなくなったから、というのが最も大きいですね。
振り返ってみると、書いたノートって見返すことが本当に少なかったんです。使い捨てみたいなものですか。とにかく書くだけ書いて終わり。使い終わると「よくやったなぁ」みたいな自己満足が残るだけ。もう書くことが目的化しちゃっていたということです。あくまでも知識整理の補助としてのノートであるべきところ、知識整理ではなくて書くことが目的化していたんですから。全く意味ないですよね。
ノートを使う上で特に意味がないなと思ったのは、教科書に書かれている事柄を学校の先生がそのまま黒板に書き、それを写さないといけないこと。若い頃はそれでも書いていました、全く見返しませんでしたけど。教科書を見れば済むことですから。ある時、「こんなムダなことをするくらいなら、教科書に直接必要なことだけ書き込んだ方がいいんじゃないか?」と思うようになりましてね。見返すことがないノートより、いつも確実に見ている教科書に必要なことを書いておけば目に留まるだろう、という理屈です。僕の勉強はどの科目も教科書の音読+問題演習が中心でしたから、ノートにあれこれ書くより遥かに意味があると思ったんです。
僕が若い頃は、それでも言い方はおかしいですが「許されていた」とも言えますね。授業ノートを提出し、それに評価が付されるということがなかったように思いますので。しかし、今はどうでしょう。ノート点なるものがあるんですってね。とすると、ノートをほとんど使わなくなった後の僕なら相当に低い評価になるだろうし、定期試験でたとえ高得点であったとしても、通知表の成績はどうなることやら。そこで「ノートを書け!」と強制されていたら、きっと僕は今頃勉強とは無縁の生き方をしていたかもしれませんね。定期試験で高得点をとっても、意味があるとも思えないノート作りに精を出さないからという理由で評価を下げられるのであれば、何のための定期試験かということになるので。
最後に、以前のブログ記事でも触れたことですがあえて再度書こうと思います。
以前、こんなことを言う生徒がいました。
「授業中は先生が黒板に書いたことをノートに写すことに精一杯でした」
「先生が何を言っているか全然聞いていませんでした」
こういう生徒が現実にいたんですね。しかも1人や2人ではない。本来ならば、内容を理解するためにしっかりと授業を聞くことが最優先のはずです。が、ノート点のためにと授業を聞くよりもノート作りに精を出してしまった。僕からすれば、これって悲劇だと思うんですね。授業よりもノート作りを優先した生徒は間違っています。でも、そのキッカケを作ったのは生徒ではありません。ノート点のために、これが生徒をそうさせてしまったのではないでしょうか。
こうした経験があるため、僕は何が必要で何を大切にしなければならないか?ということを生徒達とよく話すようにしています。ノート点の呪縛から解放するためにも。