末端とはいえ、教育に関わる者として、本来であれば教育の目的等々教育学分野の知識を持っていなければならないのでしょうが、恥ずかしながらそういうものは持ち合わせていません。それ故、「何が正しい教育の在り方なのか?」という問いに対して、明確に答えられるだけの自信は全くないです。
そもそも、僕はこの「正しい」という言葉をあまり使いたくないんですね。もちろん、生徒から「これ合ってますか?」という質問をされれば、「それで正しいよ」と言うことはあります。答えが明確な場合であれば、この「正しい」という言葉をそれこそ正しく使えると思います。ただし、何が正しく、何が正しくないか不明確なものには、できるだけ使いたくはない。安易に「正しい」と定義づけるようなことはしたくない、というのが本音です。だからこそ、あえて「正しい」教育を考えてみようと思い、今回このブログを書くことにしました。
この世はある意味で正しさに溢れています。その正しさが対立を生み、「正しい」と主張する者同士が究極的には戦争という悲劇を生む、結果としては正しくないことも現実に起きているんですね。それは否定できない事実です。しかし他方で、曖昧なままの正しさがまかり通れば、何をもって正しく生きていかねばならないのかという指針がないために、人は正しさを求めているとも思います。教育はその点で言えば、正しさを求められる側なのだろうと。
日本社会では、義務教育の9か年は全ての子供が学校に通います。言ってみれば、確実に学校に通うこの9年の間に、子供を社会に出しても良いように教育を施さねばならないということになりますか。そういう観点で見れば、学校は単に科目の内容を教授する場としてだけではなく、社会性を涵養する場としての機能を有しているとも言えるでしょう。もっとも、学校という小さな社会に適応できず、又閉鎖的であるが故に逃げ場を失ってしまっている子供が少なからずいることも、大人は忘れてはならないことだとも思います。それに加え、多くの子供が日常的に接する大人は、家族、学校の先生、習い事をしていればその指導者程度と極めて限定的であり、とりわけ長時間接することになる学校の先生が子供の価値観形成に与える影響力は計り知れないものでしょう。素直な子供の場合、学校の無謬性を無意識に受け容れている可能性もある。そのため、学校の先生の指導が誤ったものであった場合、それを是正する機会も限定的であるということは理解しておかねばならないでしょう。
では、具体的に今日の教育議論の中心は何かと言うと、それは恐らく「学力」に関するものであろうと思います。ただし、かなり歪んでしまっているように僕は思っていますね。学力がいつの間にか受験に必要なもの、という認識にスライドしてしまっているきらいがある。上位進学校に合格することが、有名難関大学に合格することが善かのように。しかし、本当にそれで「正しい」のでしょうか?受験を勝ち抜くことが、真に学力を獲得する目的なのでしょうか?塾を運営している立場として適切な表現ではないかもしれませんが、受験を勝ち抜くための学力獲得が、「正しい」教育の姿であるのでしょうか?
学力論を展開するつもりはないのですが、学力というものは「生きていく上で必要なもの」、もっと言えば「読み書きそろばん」に代表される基礎的リテラシーの獲得が基本であり、それ以上の学力は個々人の進む方向性に従って獲得していくものである、と僕は思っています。受験はその意味で、自身がそうなりたいと思う姿を実現するための手段であって、受験そのものが「正しい」教育の姿そのものではない。であるにも関わらず、学校は入学難易度に基づいて序列化してしまっている傾向にあり、入学難易度が高い学校に入ることを塾業界はおろか学校までもが宣伝してしまっている現状においては、受験を勝ち抜くことがさも「正しい」教育であるかのような錯覚を与えてしまっているという印象は否定できないものであると感じています。
そのように考えてくると、一体何が「正しい」教育なのか?という点が益々わからなくなってしまいます。ここまで書いておきながら、僕の中でまだはっきりとした像が思い浮かんできていません。それくらい「正しい」ことが何かを定義することが困難であるとも言えます。いずれ時期が来れば、適切な言葉が思い浮かぶようになるかもしれませんが、現段階では保留としなければなりませんね。しかし、ブログ記事として書き始めてしまった以上、一定の結論を導き出すのがマナーであるとも思います。そこで、普段から思っていることを書いて結ぼうと思います。
命を大切にすること。自分自身も他者も含めて。有限である命を大切にしながら、人生を意義あるものにすること。人生を意義あるものにするために、学ぶ姿勢を大事にすること。様々な学びをするために、多くのことに興味を持つこと。そして、多くの考えに触れること。そのきっかけを与えるのが教育ではないか?、と。
この続きは、いずれ書きたいと思います。いや、書かねばならないでしょう。「正しい」教育とは何か?日々問うていきたいと思います。