以前、こんなことを言う生徒がいました。
「私、やればできる子なんで」
おう、そうかい、すごいね。じゃあ、いつになったらやるのかな?できる姿を見たいなぁ、と思っていましたが、「やれば」という仮定は僕が知っている限りずっと仮定のままでしたね、残念ながら。ひょっとしたら、その後覚醒した可能性はなきにしもあらずですが、はてどうでしょう。そういうことを自分で言っている限りは、僕はその生徒が覚醒したとは思えないんだよなぁ。
このことは、僕がその生徒の能力を否定するものでは決してないんです。むしろ、その逆なんですね。認識さえ変われば、本当にもっとできるようになったかもしれない。伸びしろは十分にあったのに、それを自分自身で潰してしまったように思っているんです。それは何故か?
先にも書いたように、その生徒は自分自身を「やればできる子」と言っていました。それが意味するところ、真意の部分はわかりません。ただ、普段の言動、行動を見る限り、どこかに過信があるんだろうなというのはわかっていました。少し力を出せばできるようになる。そういった過信、僕には言い訳にしか見えないのですが、それが自分自身を甘やかしていたのではないか。そんな風に感じるのです。
人間は、自分のことは自分自身が最もよくわかっている、と錯覚しがちです。その生徒の場合、確かに潜在的な能力には光る物がありました。ただし、その光度を自ら上げることができなかった。本来であれば、他者が「君はやればもっとできるはずなんだから、やらないのはもったいない。継続して努力していかないといけないね。」と評価すべきことを、自己評価でもって「努力を継続する必要性」の部分を排除し、単に「やればできる子なんだ」と慢心していたんですね。結果として、「やらないからできない子」の領域から脱することができなかった。残念と言う他ありません。
この例ではないですが、どうしても自己評価は甘くなりがちです。ですから、結果を残したいならば、やや厳しく他者から評価されることも必要だということです。それは指導者からの評価であっても良いし、テスト結果という客観性の高いものによる評価であっても良いと思います。もっとも、それをどう受けとめるかは結局本人次第なんですけどね。