10連休が終わりますね。長いようであっという間だった、というのが偽らざるところではないでしょうか。春休みの後、新学期を迎えてから1か月もしないうちに10連休ですから、春休みの感覚が抜けないままにまた休み、というのが表現としては正しいのかもしれません。
ところで、連休中も半分程教室を開けていたのですが、最後の最後になって「まだ学校の課題が終わっていない」という声が聞こえてきました。課題そのものにも問題があることは、既に先月のブログ記事でも触れています。が、それをやらなくても良いとは言えないため、最後まで諦めずに頑張って取り組むように話をしておきました。もっとも、まだ終わっていない生徒の中でも、連休の最初の頃から一生懸命取り組んでいた生徒がいたのは事実です。逆に、明らかに何日間か手を抜いただろうと思われるケースもあったため、一概に擁護できるものではないことは触れておく必要があると思います。
この連休は、言ってみればチャンスでもあったと思うんですね。春休みとほぼ同等の日数が休みだった訳ですから、単に連休と言うには長過ぎる休みだったんです。この機会を生かすことも殺すこともできたはず。とりわけ、学年平均点に満たないような子には、この休みで基礎固めをし、少しでも差を縮める足掛かりにすることはできたでしょう。
何故なら、受験を考えれば、周囲との差がポイントになるんですね。だからこそ、偏差値の概念が有効になる。自分では頑張れば成績は上がるだろうといくら思ったところで、周囲も同様に成績を上げてくることを想定すると、相対的に見れば向上はほぼないに等しくなることも十分にあり得る話です。ということは、この連休のように、皆があまり勉強に熱心ではない時期に取り掛かり始めることが、センスのある人の勉強と言えるのだと思うんですね。
僕が知っている限り、「部活を引退したら勉強頑張ります」と言った子で本当に頑張った子はほぼゼロです。今できないことは急にできるようにはならないんですよね。そういうことを言っても良いのは、現段階である程度の成績を残せている子だけなんです。そうでない場合には、できる子との差は縮まらない。だから、この時期をどう過ごすのかは、夏以降に向けて基礎体力を付けられるかどうかに関わる重要事項だと言っても何ら差支えない。つまり、この連休は勉強が苦手な子ほど勉強に打ち込むべきだった、という結論になるのです。
連休前、生徒達と話をしていると、「○○高校に行きたい」とか「公立高校に行きたい」といった希望を聞きました。それが叶うように努力しよう、と言いましたけれど、それがどれくらい本気なのかどうか、この連休を通して何となくわかったように思います。家庭の事情で欠席するケースもあったでしょうし、欠席そのものをとやかく言うことはありません。出欠を管理する塾ではありませんからね。が、連休中全日欠席もしくはほとんど欠席だった生徒達が家でどれだけの勉強をしたか想像すると、全員とは言いませんが、残念ながら限りなくゼロに近いものだろうと思えてしまうんです。普段の姿勢を見る限り、そう思われても仕方ないように感じます。
たかだか連休の僅か10日間程度の見通しが立てられず、ほとんど勉強せずに過ごしてしまったような生徒が、どうして受験という遠くの目標を見失うことなく、日々の努力を続けられるのでしょうか?僕が持っている岩波文庫の『論語』(金谷治訳注、昭和58年第27刷)の214ページにはこう書かれていますよ。
“人として遠くまでの配慮がないようでは、きっと身近い心配ごとが起こる。”
この言葉は、タイトルにある書き下し文の現代語訳です。結局のところ、志望校合格という明確な目標が言う程のものではないからこそ、意味のある過ごし方をしようと決めたはずの連休を無駄にしてしまうことになった、目先の楽しみに負けてしまった、と言えるのではないでしょうか?もしそうであったのならば、連休明けすぐからセンスのある時間の過ごし方をしましょうね。自分で気付かないことには、自分自身を変えることなどできませんよ。