世間では何かと「平成最後の」が使われ過ぎている印象があるので、正直その枕詞はあまり好きではないですが、平成最後の日はあえて英語教育に関することを書いてみようと思います。
現在、英語教育は4技能、すなわち「読む」「聞く」「話す」「書く」が重視されるように変わりつつあります。試験でもその4技能の能力が試されるものへとシフトしています。従来、日本の英語教育は「読む」が最重視され、「聞く」「書く」がそれに次ぐ位置にあり、「話す」はそれ程重視されてきませんでした。それが大きく変わろうとしているということです。
このことについては、各所から意見が出されており、わざわざ僕が持論を展開するまでもないようなことではあります。ここであえて持論を展開するならば、僕は「読む」をこれからも重視することが大切だと思っています。グローバル化の時代にあって時代錯誤な意見だ、という批判も当然あるでしょう。しかし、時代が変わろうとも、日本人全員が英語を話せる必要性はないように感じてならないのです。英語が本当に必要な人だけが4技能の能力、その中でも特に「話す」能力を獲得すれば良いのでは?と思うんですね。
言葉は思考の中心です。僕達日本社会に生きる者は(国籍は問いません)、日常的に日本語を使い、そして日本語で思考しています。だからといって、皆が皆優れた日本語の能力を持っているかというと、実際そうでもないんですね。いつも日本語を使っているから日本語の能力が高い、とは必ずしも言い切れない。日本社会で生まれ育ち、日本社会で今も生きているから日本語はできて当然だ、という考え方もあるかもしれませんが、意識しないだけで、本当は当然と言えるようなものではないんですね。むしろ、極めて難しいものなのだと思うんです。日本語を母語とする者同士ですら、微妙なニュアンスの違いですれ違うことは現実にあります。これは、話し言葉であろうと書き言葉であろうと同じように発生する事案ですから。
考えてもみてください。日本語で話すこと、書くことですら本当はとても難しいのに、そのことが過小評価されていませんか?
例えば、僕のブログが上手い文章かどうかを自分自身では判断できませんが、書いている僕自身が言葉を紡ぐのはとても難しいと思いながら書いています。読んでくださる方に意図を正確に伝えられるだろうか?と思いながら。常日頃何かしらの文章を書き続けていてもそう感じるんです。それに、生徒相手に毎日話し続けている立場であるとはいえ、上手く生徒に伝わる表現ができているか、その時々で適切な言葉を選べているかと言われれば、常にそうだという自信はありません。つまり、それだけ言葉を使うということは難しいということ。それを母国語ではない英語でやろうとすれば、しかもたかだか週に何時間かしか触れることのない言葉で、どうして実現できるのでしょう?このような状態で、国民全体が言語としての英語を獲得できる蓋然性が高いといえるでしょうか?
明日からの令和の時代は、僕が生まれた昭和やまさに終わろうとしている平成以上に英語熱が高まることが予想されます。しかも、英語教育の低年齢化は更に加速していくことでしょう。しかし、だからこそ言いたいのは、母語としての日本語をもっと大切にしたいということ。先程も書いたように、僕達は日本社会で生き、日常的に日本語で思考しています。そのことを忘れ、グローバル社会の到来というある種の脅迫観念に駆られ、英語が大切だというお題目の下で英語教育熱を上げたとしても、思考の中心たる日本語を軽視することはあってはならないはずです。
皆が皆中途半端な英語を話せるようになるより、英語を読めることによって見聞を広めることができる状態を保つことの方が遥かに有益であろう、というのが僕の持論です。