人間は忘れる生き物/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 昨日の昼食、何を食べたか覚えていますか?夕食だと家族揃って食べることも多いでしょうから、印象に残っていて覚えているかもしれません。しかし、昼食となると、外食でもしない限り「あれ?何を食べたんだったかな?」となるような気がします。はい、僕も昨日の昼食に何を食べたのか全く覚えていません。普段、できるだけ昼食はササッと済ませてしまいたいと

思っているので、余計に印象が薄くなっているんでしょうね。美味しく食べたはずなのに、しかし全く覚えていない。

 

 これ、別に食事の話をしようとしている訳ではないんですね。それくらい人間は忘れる生き物ですよ、ということが言いたいんです。しかも、強い関心を示していないことは、30分、いや5分前のことでも忘れます。

 

 わかりやすい例を挙げてみましょうか。厳かな式典に参加しているとします。厳かな式典なので、多くの人がマジメに参加していると思います。マジメに参加しているはずの式典なのに、そこで挨拶に登場する人達の話を式典終了後までしっかりと覚えている人はとても少ないのではないでしょうか。マジメに話を聞いているんですよ、多くの人が。にもかかわらず、覚えている人はとても少ない。要するに、マジメに話を聞いていてもそこに関心がなければ、自分にとって必要だという認識がなければ、僅かな時間で忘れてしまうということです。

 

 ところで、よく勉強が苦手な子は、勉強が得意な子を「あいつは頭が良いからだ」と言ったりしますが、それは違うと僕は思っています。本当に天才的な頭脳を持っているのは何万人に1人か2人のレベルの話で、なかなか簡単に巡り会うことはできません。では、両者の違いを言うとすれば「記憶に残ることをやっているかどうか」「記憶に残し、且つ知識としてすぐに取り出せる状態を作り出せているかどうか」の差なんだと思います。詳しいことはよく知りませんが、エビングハウスの忘却曲線という概念がありますね。それを勉強が得意な子が知っているかどうかは別として、彼らは絶えず忘れないように努力をしている。そうなんです、忘れるという人間の本能に抗っている、ということになりますか。

 

 僕もそうなんですが、大人になると文章入力はほとんどパソコン頼みになり、手書きで仕上げるということが本当に少なくなります。このブログももちろんそうですね。そうすると、読むことはできても書けなくなってしまう漢字が出て来ます。日常的に触れることのない漢字は、かなりの確率で忘れてしまっています。体が覚えていて、勝手に手が動いて書くこともありますが、書いた後これで本当に間違っていないかと確認することも多々ありますからね。あらゆることを絶えず忘れないようにするのは、この例から見ても簡単なことではないとわかります。だからこそ、そこで「できる」「できない」の差が生まれるとも言えますか。

 

 最後に、勉強するという観点に限ってしまうと、何故人間はこれ程までに忘れてしまうのか!と思うこともありますが、いやしかし、人間は忘れるからこそ人間だとも言えるように思います。忘れるからこそ、そこに明確な努力の差が生まれます。誰もが何でもかんでも覚えることができてしまったら、今度は努力という言葉が忘れ去られてしまいますよね?同時に、人間は忘れるからこそ、また頑張ろうって気になると思うんです。生きるモチベーションとでも言えますか。

 

 人間は忘れる生き物です。忘れるということにどう付き合っていくか、いろんな観点で考えると面白いですね。