「自主学習ノート」とか「自主勉強ノート」って、本来は自分が自主的に勉強するためのノートですよね?それが何故か提出を義務付けられているとすれば、それは「自主」ではなくて「課題」なのでは?なんて思います。「自主」的に決めた内容を「自学」するノートであって、他者に見せるものでも、ましてや提出するようなものでもないと僕は認識していましたが、日本語は難しい言語なので、僕の認識がおかしいのかもしれませんね。もし僕の認識がおかしいのだとすれば、提出を義務付けられた「自主学習」とか「自主勉強」という表現が、そもそも僕は嫌いということになりますか。
「自主勉強ノート」については、既に過去にもブログで言及しています。そこに書いている考えが今突然変わったということではないので、あえてこの話に触れる必要もないと言えばないのですが、それでも書こうと思いました。追記ということになりますね。
春休み、生徒達は一生懸命に「自主勉強ノート」を埋める戦いに臨みました。いや、もう、これは戦いと表現する以外に表現のしようがないのです。勉強する目的の1つに、ノートを埋めることを追加せねばならないのです。勉強する目的は、本来的には理解をすること、理解する事柄を増やすことだと思うのです。理解するきっかけとしてノートを使うということはあっても、ノート量で理解した量を可視化できるのかは甚だ疑問ですが。まぁ、無理でしょうね。何時間かやれば良い訳でも、ノートを何ページか埋めれば良い訳でもないですから。
もっとも、学校の課題として「自主勉強ノート」を○冊やることとか○ページやることが求められてしまっている以上、僕の立場で「そんな課題やらなくてもいいよ」とは言えません。「意味のある勉強をしよう、その結果としてノートを使おう」としか言いようがない。言ってみれば、意味のないノートを埋めるだけの作業ではなく、正攻法でもって○冊とか○ページという難敵に挑もうということです。しかし、そう簡単にはいきませんよね。
生徒達はもがいてました。毎日毎日休まずに通い、何時間も勉強してもノートは一向に埋まっていかない。苦手な分野は理解するのには時間がかかるし、計算問題のようにある程度のノート量を必要とするようなことばかりやる必要性がない場合、本当にノートは埋まっていかないんです。漢字や単語の意味のない羅列や、既にできるような計算問題ばかりを行うのとは異なり、生徒自身にやる意味のある勉強をしてもらいつつ、ノートを埋めていかねばならない。春休みも残り僅かというところまで来ても、それでもまだ残っている、そんな状態でした。生徒だからという情ではなく、客観的に見ても、意味のある勉強をやりながら短期間でノートのページ数をこなす宿題を終わらせるのは、なかなかに過酷なことです。
しかし、いつになったらこういった「自主」という名の強制から子供達は解放されるのでしょうか?要領良く、意味がないとわかっていても、それでも割り切ってノートを埋めるためだけにこなした子もきっといるでしょうね。中身や質よりも量だけを見られるのですから、そう考える子がいるのは想像に難くない。でも、それは子供達から貴重な時間を奪うことにならないのか?という想像力が足りないようにも思います。
家庭での学習習慣を付けてもらうため、という大義名分の下、指導者側の都合を一方的に子供達に押し付けるやり方で、本当に子供達の学力が向上するのでしょうか?学校の先生方に聞いてみたいですね、本当にノート量をこなすことが学力向上に寄与すると信じているのですか?と。
最後に書いておくと、僕はノートを使った勉強はあまりしません。基本的に教材を読む(黙読、音読の両方)ことが中心であり、ノートはメモ書きとか問題の答えを書く時とか計算の練習をする時だけ使用します。よって、今主流になっている課題と向き合うとするならば、大半が数学になり、残りは何をやっているのかわからないような問題の答えの書き込みになるでしょう。英語すら、よく子供達がやりがちな同じ単語を何十回も書くようなことはもちろんしませんし、必要以上にはノートに書きませんからね。ノートに書くよりも、教材に必要な情報を追加して書き込むような勉強をしていましたから。しかし、こういう勉強法であっても、大学受験まで乗り切ることができています。使用したノート量で言うならば極端に少ない。これは何を意味するのでしょうね?