多様性という言葉、どこか安易に使われ過ぎているように感じています。教育現場においても、昨今は多様性を尊重することが人権教育の柱になりつつあるようですが、しかし現実にはその真逆のことが起きているように思うのです。
僕が特に気になっているのは、学校の宿題です。特に中学生のテストの際に提出が求められるワークの宿題。中学生にもなれば、上位と下位で学力差は最早埋め難いものになっています。小学生の頃も学力差はあったでしょうが、500点満点の定期テストが実施されるようになり、その差は小学生の時よりも明確にわかります。例えば、平均点が280~320点くらいであるとすれば、100点前後の子と450点前後の子では求めているものが全く異なります。故に、両者に同じ宿題を出すことが、はたして最善であると言えるのでしょうか?僕には最善であるとは思えないのですが。
にもかかわらず、学校は全生徒を対象とした画一的な宿題を出す訳です。しかも、提出しなければ提出点での大幅な減点が待っている。
中位の子には、ある意味でテストで多少失敗しても宿題提出によって救済されることになり得るし、宿題がちょうど良い復習の機会にもなるので良いかもしれません。下位の子にとっては、できなくてもやれ、と言われているに等しく、意味があるとは思えません。できないものはできないのであって、それでもやれと言うのであれば、それはすなわち答えを写してでもやれということと同義だと受け止めざるを得ないのです。
答えを写してでも宿題をやる、これは見方を変えれば不正とも言えるのでしょうが、言わば学校側がそういった不正を是認し、且つ不正を行うことを前提として宿題が出されている以上、答えを写してでも何でも宿題をこなすことこそが正義とも言える状況になってしまっています。この歪みは、本来是正されなければならないはずですが、残念ながら逆方向に、むしろ悪化の一途を辿る方向に進んでしまっている傾向にあるように感じます。中には、複数回やらないと評価の対象とはしないという方針の先生もいるようです。それはつまり、答えの丸写しを延々と行わせることでもあると思うのですが、それがはたして意味のある宿題と言えるのでしょうか?
宿題の本来的趣旨は、授業内容の補完であり、生徒個々の到達度の確認だと思うのです。であるにもかかわらず、答えを写してでも空欄を埋めさせる、言わば写経の作業を強制している部分もあるということ。これで学力は伸びるのでしょうか?百歩譲って数学以外の科目では全くゼロとは言えないかもしれないですが、数学は考え方そのものが重要になってくるため、答え及び解説を利用することで勉強になることはあっても、答えの丸写しが勉強になるとは思えません。むしろ逆効果にすらなるとも思います。
最初に多様性のことに触れておきました。学力差も多様性のうちの1つであると僕は思います。そうすると、学力の差があるとわかっていながら画一的な宿題を出すことは、多様性を認めないことであるとも言えます。付け加えるのであれば、できないとわかっていながら答えを丸写しさせてでも強制する宿題は、個人を尊重していないということになるとも言えるかもしれません。多様性の尊重を教育現場にて行うのであれば、宿題に関しても検討すべきことが多いように感じています。
※今回のブログは、ツイッターで仲良くさせて頂いている先生方と「宿題」についての話題で盛り上がり、その流れの中で書きました。恐らく、ネット空間だけでも宿題に関する意見は相当数出ていると思いますし、その結論に関してもおよそ似たようなもので溢れていると思います。これまで、僕はあえて宿題をテーマにするまでもなく、こちらのブログでも意見を少しずつ表明してきました。例えば、昨日のブログでも触れていますし、先月31日のブログの後半でも触れています。ですから、わざわざ改まって書く必要もないように思いましたが、せっかくなので少し書いてみました。如何でしたでしょうか?