夢幻の楽園/RS野中/勉強が苦手な子のための学習塾/岐阜・岐南・笠松・ 各務原

 今日で3月も終わりますね。3月が終わるということは、すなわち今年度も終わるということ。1年間ありがとうございました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 

 ところで、この2か月程で僕自身色々と考えさせられることがありました。大きく言えば2つ。 

 

 まず1つ目には、このホームページを大幅にリニューアルしたこと。これまでも「勉強が苦手な子」「勉強が嫌いな子」に特化した塾づくり、塾運営をしてきたつもりでしたが、まだまだその度合いが弱かったように感じていたのと、ホームページ立ち上げ時よりも深化した思いが適切に表現できていなかったので、思い切ってリニューアルしようと決断したことでした。最近では、勉強はもちろん大事ではありますが、それ以上に「生きること」「生き抜くこと」がRS野中のメインテーマにありつつあるように感じています。そのために必要最低限の勉強を一緒にやっていこう、そんな感じです。

 

 もう1つ。当初は何らかの宣伝ツールになれば、というやや打算的な面もありましたが、ほとんど使っていなかったツイッターの活用を通じて多くの出会いがあったこと。これは幸運とでも言うべきものでした。今回は年度の最後を締め括るにあたり、僕が元々考えていたこととツイッターでの出会いを通じて得た知見とを融合したことを書いてみようと思います。出だしでやや長くなってしまいましたが、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

 

 僕自身、地元では人気が高い岐阜北高をボロボロの成績で卒業して、一風変わった浪人生活を送り、入試直前に入院生活を余儀なくされてもうダメかという状況の中で受験をして、第一志望の早稲田大には届かなかったものの中央大に入れさせてもらって、そこで本当に勉強好きな友人達に刺激され、家業に従事している時に偶然勉強嫌いの子と出会って今に至ります。これは「プロフィール」のところでも書いた通りです。RS野中ができた経緯そのものがやや特殊であり、対象となる生徒の学力層、運営方法も他の塾とは趣が異なるものであるため、僕自身の指導に必要な知識レベルは決して高いものではないと自覚しています。それらの要因もあって、上位進学校合格を第一目的に据えた塾とは真逆の塾の在り方を模索し続けてきました。

 

 そもそも、地元の進学校と呼ばれるところに行き(岐阜学区で言えば5校、とりわけ岐阜と岐阜北)、そこから難関大に進むことがある種の受験上の成功という考えが世の中にはあり、僕自身もそう考えていた時期が確かにありました。しかし、RS野中を運営するようになってから、生徒達との触れ合いを通じて教えてもらったんです。進学校から難関大に行ったとして、それで得られるものとは何だろうか?皆が皆そこを目指す必要なんて本当はないし、社会には様々な背景を持った人、価値観の人がいるからこそ成り立つのではないか?地元の進学校から難関大というもてはやされるルートにこだわることは、本当に正しいことなのか?と。

 

 そこで原点に立ち返ってみたのです。勉強するのは何のため?誰のため?多くの塾が「○○高校合格」とか「○○大学合格」を宣伝していますが、それは本当に子供達のためなのだろうか?子供を利用したビジネスなのではないのか?合格に導くことだけが子供のためなのか?本来の教育とはそういう趣旨のものなのか?疑問は次から次へと出て来ました。数えられないくらいに。

 

 振り返ると、僕が進学した岐阜北高の1学年の定員は当時400人でした。岐阜学区の中では岐阜高に次いで入学難易度の高い学校ではあります。しかし、それはあくまでも岐阜学区の中の話であって、全国を見渡せば岐阜北高以上の難易度の学校など数えられないくらいあるのです。そんなこととは無関係に、岐阜北高に入ったくらいでチヤホヤされ、勘違いし、さも有名どころの大学に当然に行けるだろうなんていう甘過ぎる期待をしてしまった同級生、僕含めてたくさんいましたよ。ここに入ったからには、最低でも名古屋大は目指さないとね、と。実際に名古屋大を第一志望にしていた同級生、半分以上いましたから。高校に入学することで、さも夢幻の楽園に辿り着いたかのような勘違いっぷりです。その勘違いを加速させたのは、残念ながら周囲の大人達の影響というのもきっとあったでしょう。現実には定員の1割程度しか合格しない大学に、皆が皆合格できるかのような錯覚を与えてしまっていた。そして、そのことで苦しむことになる。岐阜北高に入れば有名な大学に行けて、就職にも困ることはないだろう、でもそれって所詮大人達が作り出した幻想ですよね?

 

 少しばかり優秀な小学生の集まりなどに行くと、揃いも揃って「将来は医者になりたいです」という声を聞くことがあります。本当に医者になりたいのであれば良いのです。どうぞ頑張って欲しい。でも、僕には違和感が拭えないんですね。何で?と思ってしまう。「成績が優秀だから将来は医学部へ」と、本人ではなく、周囲がざわついているだけではないか?子供達はそう言わされているのではないか?大人の側が子供が医学部に進むことを過剰に期待し、子供の本当の夢を奪っているのではないか?医学部に行き、医者になることこそが、幸せなことだと思わせてしまっているのではないか?別に医者でなくとも、社長になって大儲けしたい、そんな夢であってもいいじゃないか?僕はそう思うのです。

 

 世の中には様々な職種があり、どの仕事にも優秀な人は必ずいます。だから、子供の学業成績が優秀だからといって、特定の職種だけに過剰にこだわり、それを強いることが本当に子供のためになるのでしょうか?もっといえば、勉強を無理強いしてまで進学校に進ませることそのものが子供の幸せになるのでしょうか?大学に行かせることが、医学部に行かせることが幸せなのでしょうか?逆に、社会で生きるそうではない人達は、幸せではないということなのでしょうか?

 

 僕自身は小学校6年生の時に社会が好きになり、勉強しているという感覚ではなく、ほとんど趣味の世界で社会のことを知ろうとしてきました。先日書いたブログでも、その経緯の一部には触れています。その時の思いがずっと消えることなく、大学を卒業するまでずっと社会系の勉強を続けられました。これは好きだからです。やらされた勉強ではなく、自らが望んだことだからです。学びたいから勉強したのです。だから苦痛でも何でもなかっただけなのであって、もしこれがやらされる勉強であったのなら、自らが望まない分野の勉強を強いられたとしたら、とてもじゃないですが耐えられなかったでしょう。僕の両親は幸いにも「○○の分野に進みなさい」とは一切言いませんでした。勉強をやれとも言わなかった。だからこそ伸び伸びやらせてもらうことができたとも言えます。

 

 であるならば、いくら塾運営者であるとはいえ、生きていく上で必要最低限の知識、具体的に言えば漢字や小学校の算数などを除けば、勉強などできないよりはできた方が良いくらいに思えてきたのです。大切なのはやりたいから勉強をするという気持ちであって、勉強嫌いな子供達に大人の都合でもって勉強を強制し、できもしない大量の課題を与え、自由を奪うことによって子供達を潰してしまうことは避けなければならないのではないか?と。子供達は自分が目指す生き方をするために、必要に応じて勉強していけばいいんじゃないか、そのような思いが次第に強くなっていったのです。

 

 これまでも課題を出すことはほとんどありませんでしたが、来年度は漢字以外の分野については、基本的に課題を出すことはしないつもりです。これを徹底していきます。29日付のブログにも書いたように、子供達は色々と失敗して、いつかはわからないけれどある時自分自身で勉強の必要性に気付いて、それから本当の意味での勉強が始まって、少し理解できることが増えて、ちょっとだけ成果が出た、という感じになるまで、僕達大人は長い目で見守るしかないと思っていますので。自ら望むならば、こちらも相応の課題を与えます。そうでなければ生徒自身が気付くまで、強制することなく待とうと思います。子供達にはその場限りの見せかけの勉強ではない、意味のある勉強をしてもらいたいと願っていますので。

 

 来年度もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

※最後に、このブログもそうですが、ツイッターで出会ったみなさんとの出会いがなければより思いを深化することはできなかったと思っています。いつもお付き合い頂きありがとうございます。

今回のブログは、度々登場してもらっています神奈川の先進舎進学教室さんのブログ「商業資本主義的学歴幻想論」と『「合格至上主義」と「勉強原理主義」を入試現代文から考えてみる』に着想を頂きました。

ぜひこちらもご覧ください。