少なくない大人が、「塾である程度勉強させれば、うちの子も多少なりともできるようになる」と考えている節があると感じています。それは一面では正しいと思います。単純に勉強の絶対量が乏しいだけで、基本的な部分は押さえている子ならば、短い期間であってもできるようになっていくでしょう。逆に、塾で勉強してもらってもなかなか伸びていかない子も現実にはいます。塾を運営している者として、こういった子供達を何とかしたいとあの手この手は考えるのですが、勉強の前の段階の問題を解決していかないことには実現が難しいとも思います。勿論、自身の指導能力の問題を否定するものではないことは記しておきます。
一般的に言う「勉強ができない子」というのは、自分自身の能力を自分自身で潰してしまっている傾向にある、と感じることが多分にあります。それは、自らを肯定するあまり、多様な価値観に触れる機会を自ら放棄してしまっているということ。ただでさえ子供達は普段限られた大人としか接していない中、頑ななまでに殻に閉じこもってしまうことで、自らの限界値を低く設定してしまっているのです。
それに加え、「勉強ができない子」というのは、単に勉強量が足りないだけではない、ということは書いておく必要があるかと思います。様々な事情で「できない」ということも含まれます。今回はその中でも、基本的なことができないことによって「勉強ができない子」について書いていますので、それ以外の場合は当てはまりません。
基本的なことができない、ということは何かと言うと、脱いだ靴を揃えられない、借りた物を元あった場所に綺麗に片付けることができない、借りた物を乱雑に扱う、「ありがとう」「ごめんなさい」が言えない、ごみを自分で捨てることができない、約束を簡単に破って訳の分からない言い訳をする。まだまだありますが、こういった生きる上で極々基本的なことを複数できないことが多いのです。だから、できないのは何も勉強だけの話ではないということ。改善していかねばならない生活上の習慣が多く、それらを早期に改善していかない限り、とてもじゃないが勉強どころではないとも言えるのです。
しかし、そういう子供達にも当然未来があります。可能性があります。であるならば、子供達に寄り添いながらも、ある時点で眠れる能力への「気付き」を与える存在が必要でしょう。その役割を誰が担うのか?
小学校高学年から中学生くらいにかけて、子供達は反抗期を迎え、家族の言葉には耳を傾けなくなることがあります。学校の先生のことを煙たがる子もいますね。そういう場合、例えば日常的に子供達と接する僕達のような立場の人間が、何らかのお役に立てることもあるかもしれません。塾の先生でもいいし、習い事の先生でも構いません。何だ、塾の宣伝か、と思われるかもしれませんが、決してそういうことではないのです。
難しい時期の子供達だからこそ、皆で支えていけば良いと思いますし、できるだけ寄り添える大人が多くいた方が良いということです。寄り添うというのは、甘やかすこととは違います。子供達の成長を身近なところで見守る存在、と言っても良いかと思います。それは多少意味合いは異なりますが、親御さんにとっても同じこと。ご自身だけで悩みを抱えないで、共有できる誰かをどうか探して欲しいと思います。子供達は宝なんですからね。