本日は岐阜県公立高校合格発表でした。今春、岐阜県公立高校の出願者数は14,500人、定員が14,010人ですから、全県で約500人の中学生が涙を飲んだということになりますか。その確率は約3%。確率的なことだけを考えるなら、圧倒的に合格する確率が高いことがわかります。だとすれば、悔しくも不合格になってしまった3%の受験生達は、不合格を恥ずかしいことだと思わないといけないのでしょうか?不謹慎を承知の上、僕はこの不合格だった3%の受験生には、この結果がもたらすであろう光の部分にこそ意味があると思っています。
そもそも、公立校にこだわり、その合格だけを求め、出願前、出願後の変更期間に受験校を変更した受験生も少なからずいるはずです。志望校だったはずの高校を諦めて現実的な選択をした、ということもできますが、他方で挑むことができなかったということもできるでしょう。23年前の僕が正にそうでした。岐阜高校という目標があったのに、不合格にはなりたくないという逃げの気持ちが、言わば敵前逃亡のような形になってしまった。岐阜北高校に合格し、嬉しかったはずなのに、どこかで後ろめたい気持ちがずっとあったのです。だから、最後まで意思を貫き通し、その結果としての不合格だとしても、合否という結果だけでは得られない価値があると思うのです。
15の春の厳しい現実は、確かに今まで経験したことのないつらいものでしょう。それはそうだと思います。けれども、そのつらさを克服できるならば、今まで気付くことができなかった何気ない日常の大切さを、無駄に使ってしまった時間の大切さを、きっと意識できるようになるはずです。それが大きな経験となり、財産となり、生きる糧になるのです。高校受験はあくまでも大人への通過点に過ぎません。人生80年と考えれば、この経験をこれからの人生にどう生かすのか、そしてどう生きていくのか、それにこそ尊い意味があるのです。
受験は合否という結果だけで終わるものでは決してありません。残念ながら不合格となってしまった3%の受験生達は、今の思いを忘れることなく、自らを顧みる絶好の機会だと捉え、新しい3年間を意味のある、価値のあるものにして欲しいと心から願っています。それが自身の未来を照らす光となることを祈って。