最初に断っておきます。学校批判をしようということではありません。学校の先生方も生徒達に家庭学習をさせたい、というお気持ちなのだろうと理解しています。それを承知しているからこそ、思い切って批判的なことを書いていきたいと思います。
僕は「自主勉強○○ページ」という学校の課題に対して、明確に反対の立場です。それは何故か?学校の先生方の思いとは裏腹に、多くの子供達は「何かを得るための勉強をしよう」ではなく、単に「ノートを埋めるための作業」をしているに過ぎないからです。「如何に早く、如何に楽してノートを埋めるか」、残念ながら主眼がそこになっているのです。このような勉強した気になるだけの作業なら、ノートを使うことすらもったいない。何も得られていなくてもノートは埋めたからと、ただただ勉強した気になったに過ぎないので、勘違いを生むだけではないでしょうか。
それに加え、理解した内容は使ったノートの量とは比例しない、ということをもっと子供達に理解させる必要があると思うのです。勉強するということは、そこに理解しようという意思が伴わなければ意味をなしません。今まで理解できなかったことを理解しようと思えば、必然的に時間は必要です。その過程で、一体どれだけノートを使わなければならないシチュエーションが生じるでしょうか?時にはメモ書き程度であとは考えるだけのこともあるかもしれない。特に数学ではその傾向が強いと思います。1問を解くのに30分以上かかることだって、中学生くらいならあっても何らおかしくない。そうした問題を解くために使った時間と労力は、果たして使ったノートのページ数で表現できるでしょうか?少なくとも僕には全くそうだと言い切れるだけの自信はないですね。まぁ、僕がノートを使わなさ過ぎるというのもあるかもしれませんけど。
もちろん、一部の子供達は真剣に取り組んでいると思いますから、全員が全員そうだとは思いません。でも、子供の視点で考えるなら、1ページやりさえすれば、2ページさえやりさえすればと思ったら、手っ取り早く終わらせる方法を考えるのが自然でしょう。そういうものだと思いますし、圧倒的にそちらの方が確率は高いと予想します。「だったら君はどうしたら家庭学習をしたことを証明させるのか?」とお考えの人もいるでしょうが、そもそも僕はその証明自体が無駄だと思っています。元も子もないと思われるかもしれませんが、中学生くらいになってくると学力上位層と下位層では学力差は最早埋め難いものになります。やる子はやるし、やらない子は全くやりません。やろうともしない子に、いくら自主勉強ノートをもって家庭学習をしたというアリバイを証明させようとしても、中身は空っぽになるだけです。それは勉強ではなく、ただのノート埋めの作業。それでもまだ提出するだけマシか、と考えるくらいが妥当です。
長くなってしまいました。また続きは明日以降ということで。